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出勤という言葉は、響きからして憂鬱だ。それは多分、風景に由来する。
どんなに晴れた日でも、なぜかこの電車の中だけは、どんよりした雲が漂っている。乗車駅が蛍光灯という太陽の偽物で構成されている地下鉄であることも理由の一つだが、なんといっても、この車内の風景にある。みな、死んだように眠る人とスマホを見ながらうつ向いている人で占めてしまうことだ。どんな政権が登場しても日本が何年も、いや何十年も景気が悪いのは、老いも若きも皆スマホの画面を見つめ、待ち合わせ時間は言うに及ばず、電車の車内でも、そして歩いている時でさえ、うつ向いていて、みな上を向いていないせいではないかとすら思ってしまう。
 ただ、今日はいつもとは少し違っていた。乗車率100%というのだろうか。座席とつり革に立っている人がほぼ埋まっていてドアの前にも人がいる状態だ。その中でドアにある長めの縦の手すりに右手をかけ、後ろから見ただけでわかる強面の男が青白い顔で気分が悪そうにうつ向き加減にしゃがみこんでいる。
会社では、知らないふりをしたほうがいいことが多いので、あえて知らんぷりをすることもあるけれど、本当の自分は人一倍周りの環境に敏感なのだ。しかし、なぜか、普通の人は、この知らんふりを会社ではなく電車の中で発揮するようで、周りを見渡せば、皆、申し合わせたように気持ちよく眠っている。中には、仰向けに顔を向け半分口を開けて、無呼吸症候群が心配なくらい元気に眠っている。困ったなあ、わざわざ声をあげ、とんとんと肩をたたいて起こし、眠っている人の気分を害して立たせた挙句、この強面さんにさあどうぞと言ったあとに、「いや、大丈夫です」と断られたら目も当てられないではないか。
ふと周りを見渡すと、もう一人、この状況に気づいた女性がいたようだ。強面さんのほうを気づかれないように見た後、きょろきょろしている。
そうこうしているうちに、次の駅に泊まり、一つだけ座っていた人の座席が空いた。生憎、強面さんから少し離れている。女性は自分より気が利くようで、その座席にいち早く彼女の荷物を乗せ席を確保したまま座らず、さあ、こわもてさんに声をかけようとするも、こわもてさんに声をかける勇気がないのか、あるいは乗ってくる人の波に押されていた。
さすがに、ここまで状況が整ったなら、自分の出番だよね、ということで、女性へ向けて少し右手を挙げて
「私がやりましょう、少々お待ちください」
と、いうと、女性は少し戸惑うも、自分の言葉足らずをすぐに理解したのか、頷いたので、いざ、強面さんに声をかけた。
「大丈夫ですか、席、ありますよ」
と。
これまで、うつ向いていたのに、何事が起きたのかと一斉にに振り向く周りの人たち。静かな車内では、どんなに小さな声でもどこまでも遠くへ響く。普段は誰かがつまらない話をしていてざわざわしている車内なのに、なぜかこういう瞬間だけ、皆が申し合わせたように、妙に静かなのだ。
すると
「いえ、大丈夫です」
と、すっくと立ちあがるではないか。
「いや、大丈夫ではないでしょう。顔青白いですよ。さあ、どうぞ、どうぞお座りください。」なんて、何か悪いことをした指名手配犯のように周りに見つめられている今の自分に言えるはずもない。どうやら、強面さんは次の駅で降りるようだ。


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ああ、いらぬおせっかいをした挙句が、この羞恥心。
件の女性に、
「大丈夫だそうですよ」
と伝えると、女性は「ありがとうございます。」と、小声で自分に謝意を示し、自分は「は、はあ」と、その気まずさから、周りに必死に同化しようと、スマホを取り出し、意味のないページを探しているふりをして、画面を見つめて電車が付くまでの時間を凌いだ。
折しも、電車は地下から地上に顔を表し、本当の朝日が車内を照らし始めた。
そう、これでよかったんだ。恥ずかしいことなんてしてないじゃないか、大丈夫、大丈夫と自分を慰めながら、またしても一日の初めにおせっかいをしてしまった蟠りが心のどこかに残った。


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